ボランティアってやりがいがあって楽しくて面白いけど難しい

こんにちは。

 

私は何度かブログでも記した通り地域の自主防災会の役員に名を連ねている。
これは地域ボランティア活動と言えると思う。


コロナ禍で活動は長い間ストップしているが、居住する自治体と隣の自治体の社協の個人ボランティア登録も更新し続けている。

 

コロナ前は隔週土曜日に近所の特養にシーツ交換のボランティアに行っていた。月一の駅前清掃活動も参加していた。月一で認知症カフェにもお手伝いとして参加していた。


つまりこういうことが好きなのだ。

 

きっかけは高校生のころ、男子校だったので単純に彼女が欲しいという不純な理由で、たくさんの高校の生徒会の人とか興味を持った人が集まる「ボランティア養成講座」というものに応募して参加したこと。
そこで泊まり込みで研修を受け、仲間ができ、夏のキャンプだけでなくフォローアップ研修もあったので継続して学んだ。


ボランティアというものだけでなく福祉関係の興味が大きくなったきっかけだ。


大学になってもボランティアサークルに入り色々なことを経験した。
あちこちのキャンプ場や自治体の研修施設に泊まり込み、貴重な経験をたくさんした。

 

社会人になってそういったことから離れてしまっていたが、親も高齢になって介護という言葉が身近になってきた約10年前、やはり福祉関係の興味が捨てられないと思い、介護職員初任者研修を受講した。

 

同時期に社協のボランティア体験プログラムの中のいくつかに申し込み、週末や休みを利用して老人ホームやグループホームのお手伝いに行った。その時に行った老人ホームのうち、一つの特養で先述の通り継続してシーツ交換のボランティアを続けてきた。

 

大学生の時にボランティアサークルを通じて最も活動をしていた時期、自分の中ではっきり感じたことがいくつかある。

 

まずは「障がい者は健常者と対応な存在で、お互いにできることを補い合っているだけ」ということ。
決して「障がいがあってかわいそうな存在」と一言で片づけられるものではない。そこは人と人との付き合いの中でできていく関係性によるので簡単なことではない。

 

次に「ボランティアは例えば学校で消しゴムを忘れた隣の子に消しゴムを貸してあげるようなことだ。」ということ。
これはあまりボランティアって構えて難しくとらえるべきではない、日常の関係の延長だということだ。

 

もう一つは「ボランティアは負担に思って無理してするものではない」ということ。
ボランティア行為を提供する側に色々な意味での余裕がなければすぐにキャパオーバーになり、結果的にはボランティア行為を受ける側に迷惑をかけることになってしまう。
提供する側は好意で行うのでどうしても断りづらく、無理してしまいがちだ。


11月5日のブログに記したごみ処理のお手伝い、これは実はその日だけで済まなかった。
認識の違いから、毎日ウチの前に分別されていないゴミを運んでこられて困ったことになった。平日は私も仕事しているので分別する時間も取れず放置しておくしかなかったがカラスに荒らされた。しかも日々量が増え、困ったので自主防災会の他の方と民生委員さんに連絡を取り相談に乗ってもらうことにした。
11月12日のブログに記した内容の一つがこの件だ。
とりあえずウチだけで抱えることなく周りに助けを求めて正解だった。

 

ボランティア、難しく構える必要はないが、時に深みにはまりそうな難しさがある。
それも魅力なんだろうなあ。
こんな考えの私はおかしいのだろうか。。。