ウチの周りの環境に素直に感謝。でも。。

こんにちは。

 

今日でこのブログも3日連続、とりあえず続いている。

 

今日は朝から2回ほどゲリラ豪雨の雨雲が通過して土砂降りになった。

 

幸いウチのすぐ近くにある用水路は最近排水機能が大幅にアップされたので床下浸水の心配はほとんどなくなったが、数年前には「あと10分このまま降り続けるとウチがやばい」というくらいまで用水路が溢れたことがあった。

そういう経験と、すぐ近くに大きな一級河川があることから水害への備えは垂直避難も考慮したものをきちんとしているつもりだ。

 

もしかするとやりすぎかもしれない。なぜならゴムボートや救命ベスト、土砂をかき出すことを想定したスコップも高くはないものだが買いそろえているので。

使わないに越したことはないが。

 

ただ、ここまでするのは私の奥さんが少し心配症でそれを望んだからなのだが、当然家族のためにも災害で生き延びなければならないことは普通に理解できる。

子供がいる間は特にそれも強く感じていた。だが子供が手が離れてそれぞれ自立して自分の力で生活できるようになった今、そこまでして生き残る意味というものも考えるようになった。こういうことをフッと思う反面、地域では自治会や自主防災会に役員として名も連ねているので「お互い助け合いましょう」みたいな話も普通に口にしている。

本心では生き延びること、長生きすることに疑問も感じながら、人には「助け合って長生きしましょう」みたいなことを言っている。そこに大人の本音と建前というかずるさというか矛盾も感じる。

 

普段は生活に支障が出るのでそういうことは深く考えず気にしないようにして受け流すようにしているが今日のようなお盆休みで変に時間があったりすると考え込んで深みにはまってしまいがちだ。

 

考えすぎなんだ。よく自分でもわかっている。

でもたぶんみんな多かれ少なかれ同じようなことを感じているのだと勝手に思っている。

それでも生きていく、生かされていく、何のために生きるのか深く考えることはせずに。

何のために生きているのか、これから生きるのか、答えを求め続けるんだろうなあ。